田舎 or 都会 ~自分の生きる場所~
9月に入っても、日中の気温は30度超えるし、陽射しも突き刺さるようですが、
風が変わったことをはっきりと感じとれます。
いつの間にか、カエルの大合唱が聞こえなくなり、夜は虫たちの演奏会になりました。
山の季節は、短い秋の始まりです。
8月は1週間お休みをいただき、福岡の自宅に帰ってきました。
福岡には、ダンナさんと息子くんが暮らしています。
ふたりとも5月のオープンには来てくれたし、私も ほぼとんぼ返りで福岡に行ったりはしていたのですが、1週間も福岡の自宅にいたのは 福岡から山口に拠点を移したほぼ一年振りかも?
日曜日の営業を終えてから、鹿野インターから高速道路をひた走り、自宅に着いたのは9時過ぎ。
でも、街は 賑やかで、夕食の買い物に困ることなく お店も開いている。
賑やかで、みんなお洒落で、毎日がお祭りみたいに 刺激的。
そして、私も御多分に洩れず、今どき話題のお洒落なお店に行ったり、夜更かしして お酒飲んだり(あ、これは鹿野にいてもしてるか!笑)
話題のパン屋さん巡りをし、デパ地下でや専門店で 食材や調味料などを見る。
どんどん新しいお店ができて、行列になり、数ヶ月前にはそうだったお店がいつのまにか閉店している。
季節の移ろいを感じることは少ないけれど、街の変化はとても早い。
福岡の自宅から徒歩30秒くらいの所に24時間営業のスーパーマーケットがあり、夜中に突然 アイスクリームが食べたくなっても買いに行くことができるし、最寄りの地下鉄の駅まではちょっとあるけど、バス停には5分待つ事なくバスが来て目的の場所に連れて行ってくれる。
今、住んでいる鹿野はスーパーマーケットはひとつだけ。9時には閉まるし、売っているものも限られているから夕食のお買物も「〇〇が食べたい(作りたい)」じゃなく「〇〇があるから〇〇にしよう」だ。
バスもおおかた1時間に一本(もしくはそれ以下)だから、その時間に合わせて準備をして出掛ける。準備ができたから出掛けるんじゃなく、時間の逆算が必要。
バス停まで何分かかるかも重要。
夏休みの1週間、久しぶりに過ごした 福岡で感じたことは、田舎は町やそこにある暮らしに人が合わせ、都会は個人の生活スタイルを多くの選択肢の中から選ぶことができるということ。
鹿野の暮らしは、不便と言えば、そうだけど、想像力と計画性は鍛えられるね。応用力も。
不便は、悪くない、嫌いじゃない。
「よくこんな田舎に住むこと決心したねー」って、お客さんや友人から言われるけれど、田舎とか都会とか、あまり気にしたことがない。どっちも好き、だと思う。
ただ、『子たぬきのパン』をど田舎(←ごめん、悪く言ってるわけでない、むしろ都会が良いとも思っていない)の鹿野でやろうと思ったのは、そこにある人や ものや 環境を自分に取り込んで、自分の力に変えて、誰かに何かを返していける場所だと思ったから。今、ここが『私の生きる場所』だと思ったから。
『もらって返していく』
これの いちばん身近なやり取りは、家族や大切な人との生活の中にある。だから、どこに住むか、どこで生活するか、多くの人は 家族や大切な人の住む場所になっていると思う。『自分の居場所』だ。
でも、自分がやりたいこと、出来ること、必要とされること。必要とされる準備をする場所が、大切な人の住む場所でないときもあるよね。
都会が便利とか、田舎が環境が良いって言っても、なにがその人にとって必要で、どこの誰がその人を必要とするかは それぞれで、人には 決められない。自分にしか決められない。
人によっては何処かの国かもしれないし、場所ではない、繋がりかもしれない。
そして、それは、ずっと同じでなく、変化していくもの。
福岡で過ごした20年は、そこが私にとっての『もらって返していく』場所だった。
学校や職場で 料理の勉強をし、お店を開いて お客さんに喜んでもらった(と思ってる、だったら良いな)。
だから、都会で過ごしたことは 必要な時間と経験だった。
今は、この鹿野が『もらって返していく』場所だ。
自然の中で感じること、人との出会いや繋がり、自分の中に落とし込んで 蓄える。
今はまだ、もらってばかりだけど、たくさん自分の中に落とし込んで、自分の力に変えて、返していきたいと思う。
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